これは、ポテトマッシャー。世界にひとつしかないポテトマッシャー。日本語でもマッシャーだよね?ポテトつぶし器?
アメリカには、こういう丸みを持ったジグザグ型のと、丸い枠に編み目型の2種が一般的だけど、私はジグザグ型に一票。だって、かっこいいもん。8年前に1年だけ在籍していたニューヨーク市立大学のBasic 3D (彫刻の基礎コース) の課題で木彫の取っ手を作ることになった時、私は迷わずマッシャーを選んだ。おたま類を選んでいる人が全体には多かったかな。というわけで、写真のマッシャーは、私がハンドル部分を作ったので世界でたった一つのマッシャーなのだ。金属部分は、99セントストアで買ったポテトマッシャーだけど。
粘土でまずモデルを作って、角材を電気糸ノコで削って、あとは鉄のヤスリでひたすら削って成形。サンドペーパーも粗い目のものから細かい目のものまで何種類か使って、最終的にはなめらかな状態にする。2日掛かりだったかな。汗だくで筋肉痛になりながら作ったので、ものすごく愛着がある。ニスとか塗ってない自然な木の艶もいい感じ。(オイル塗ったのかな。忘れちゃった)使い込むにつれて良い味が出てきていると思う。
そして、形もきれいだけど、とても機能的。右手で握ると、手のひらの小指側の腹の部分が「し」の字のはねの部分にのっかり、親指が当たる部分がばっちり手の形に合うので、茹でたジャガイモをつぶす時に力を入れやすい。design follows functionを実現できていると思う。私のキッチン訪問者には必ず「ま、だまされたと思って、握ってみて」と言って手渡す。すると「おぉおお!」と感嘆の声があがるのだ。あぁ、自画自賛をお許しください。もひとつしつこく褒めると、見る角度によって印象が違う美があるのですね。
アメリカで大学に行くと、さぞかし英語が上達すると思う人もいるかもしれないし、実際ほとんどの科目ではそうだろうが、アートの実技に関してはあてはまらないかも。私なんて特にはまりやすい性格なので、何かやり始めると超没頭するから、授業中は全く人と口をきくゆとりがなく、スピーキングはあまり伸びなかった。
私にとって英語生活2年目の年で、一生懸命、教授のディレクションを聞き、ひたすら没頭して作業をしていたが、疲れてふと頭をあげて周りをみたら「あれ?そうだったの?!」ってことが何度かあった。あらぬ方向に猛進していたのですね。独創的にもほどがある。それもこれも今となっては懐かしい思い出。いっぱい失敗したけど、旅の恥はかき捨て的な心境で日々過ごしていたので、別にはずかしいとも思わなかった。「あらま。よっちゃん、わらかす」みたいな感じ。
ニューヨークって、いろんな人がいるので、ちょっとやそっとのことじゃぁ別に目立ちもせず、気楽。日本にいた頃からマイペースではあったけど、私なりには人目も気にし、人と違うってことを恐れていた気がする。(まぢ?という声が彼方から聞こえるような...)
私の場合は、ほとんどが英語のせいで軌道を外れていたけど、クラスの中には「人のいうこと、聞いてないでしょ?」っていう人がいっぱいいた。全長3フィート以内の立体凧が課題だった時、その倍くらいの凧を作ってきたり。で、私が聞き間違えたのかと思って教授に確認すると、「アメリカ人は測れないんだよ」とかいって笑ってて、別にダメ出しする様子もなかった。ま、凧が3フィートだろうが、それ以上の大きさだろうが、制作の本質として別にどうでもいいし、自由な発想や、本人のやる気をくじくより、これしきのこと無視してくれた方がよっぽどいいと私も思ったので、教授は立派な教育者だなぁと思った。
アメリカの教育は、人を伸ばすのが上手。なんでも良いところをほじくり出してきて褒める。みんなきっと褒められて褒められて、自信を持つように仕向けられて育ってきたんだろう。だから自分に疑いを持たず、堂々としてるし、思ったことをばんばん言う。3フィートの凧事件のように、間違ってても間違いにならなかったりするんだから、何を恐れることがあるって感じ。聴衆がとても寛容。なんでもありの世界。人のあげ足をとったり、重箱の隅をつつくような行為がない。ま、これに関しては、ちっちゃいことは気付かないのかも?って気もするけど(笑)
ここんところ、私のブログ、食べたもの日記になってきて、料理じゃないものをアップするのが心苦しい(笑)けど、、、載せてしまいました。